誰かに何かをしてあげたいという気持ちは、自分がそうしたいという気持ちと表裏一体である。

哲学

人に何かをやってあげたいと思う気持ちはとても素晴らしいことだと思う。
誰もがそのような気持ちを持ち、そして実際に誰かのために何かをしてあげたことがあると思う。
だけど気を付けないといけないのは、人に何かをやってあげたいという気持ちは、時にはただの押し付けになる場合がある。
それは自分でも気づいていない場合が多く、本当に誰かのためにやっているつもりでいる。

なぜ誰かのためにやっているはずなのに、このようなことが起こってしまうのか。
単純に、空気が読めない人、という場合もあるけれど、ほとんどの場合、実は自分の気持ちを解消するために誰かに何かをしてあげていることが多いのだと思う。

以前にこのブログで、
「家族のために頑張ってる」は絶対NG!誰かに尽くす本当の理由は自分がそうしたいから。
という記事を書いたけれど、人に何かをやってあげたいという気持ちは、自分がそうしたいという気持ちでもある。

誰かに何かをやってあげることで、その人の負担が減ったり、楽しくなったり、嬉しくなったりしてくれるのであれば、そして嬉しそうな笑顔を見られるのであれば、自分はそうしたいという気持ちが、何かをやってあげたいという気持ちにしているんだと思う。

家族のため、恋人のため、友人のため、部下のためなど、〇〇のために何かをやってあげることは本当に素晴らしいと思う。
だけど、〇〇のためにやってあげたいのは自分がそうしたいのだということも理解しておかないといけないと思う。

そして人に何かをやってあげたいという気持ちがただの押し付けになってしまう時は、自分がそうしたいという気持ちが強すぎる時。
実際に、そういうことがあるから、「ありがた迷惑」という言葉がある。
誰でも一度や二度は、「気持ちは嬉しいけど・・・。」という思いになったことがあると思う。

そういう時は大抵、やってあげたいという純粋な気持ちよりも、自分がそうしたいという気持ちの方が強くなっているのだと思う。
自分の気持ちが強くなりすぎている時は、相手の気持ちや事情などを考えず、自分がそうしてあげたいからそうするという行動に出やすい。
だから相手は迷惑してしまうし、それは気持ちの押し付けになってしまう。

冒頭でも書いたけれど、そのようなことになってしまう理由は、自分の気持ちを解消したいという思いにあると思う。
では自分の気持ちを解消したいがために人に何かをするとはどういうことなのか。

例えば、親孝行出来なかった子供ほど、親の葬式を立派なものにしようとすると言われるけれど、これは親が生きている間に何もやってあげられなかった分、お葬式だけでも立派なものにしようという思考が働いているのだと思う。
つまり、生きている間に何もしてやれなかったという自分の気持ちを、お葬式を立派なものにすることで少しでも解消したいのだと思う。

また、親が子供に怒りすぎたときや、忙しくてなかなか遊んでやれないときなど、その代わりにお菓子を買ってあげたり、おもちゃを買ってあげたりすることがある。
これも自分の中にある罪悪感などを解消したいとも言えると思う。

これらの相手、つまり立派なお葬式を上げてもらった親やお菓子やおもちゃを買ってもらった子供が迷惑だとは思わないだろうけれど、自分の気持ちを解消したいための奉仕という意味では分かりやすいと思う。

そのほかにも、他に何もしてあげられないからと言って、金銭や物を渡したりすることがあると思うけれど、相手は何もしてほしくないと思っているかもしれないし、それらのものをもらっても困るかもしれない。
それでも、他に何もしてあげられないからという罪悪感などからそれらのものを渡したくなる。

また、自分がいい人に見られたいから、好かれたいから、という理由で奉仕する人も少なくないと思う。

このように、自分では気づかないけれど、相手のためと思ってやっていることが、実は自分の心の中にある何かを解消したいためにやっている、ということは多々あると思う。

何かをしてあげたいという気持ちは自分がそうしたいという気持ちと表裏一体だということをしっかり理解しておかなければならない。
それを理解せず、あまりにやってあげたいという気持ちが強くなると、間違えてありがた迷惑な押し付けになるかもしれない。

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