自分さえよければ他人はどうでもいい?世のため人のためはキレイごと?

哲学

世の中では、他人のためになる事をしなさい、他人の役に立てるような人間になりなさいとよく言われます。
それが人間のあるべき姿であり、そうでなければ本当の幸せは手に入れられないと諭すような書籍もあります。
しかし一方、そんなことは所詮キレイごとだという意見もあります。
人の役に立ったからといって、何かを得られるわけではない、取られるだけ取られて何の見返りもない、他人を信じるなという意見さえあります。

どちらが正しいのでしょうか。

人それぞれ意見はあると思いますが、私個人的には自分の事も大切ですが、それだけではダメだと思います。
他人のためになること、他人の役に立てることばかりに気を取られるのもどうかと思いますが、それでも、出来るだけ他人のためになる事もやっていくべきだと思っています。

なぜなら、人間は一人で生きているわけではなく、他人と共存して生きています。
他人と共存して生きているという事は、多かれ少なかれ他人の影響も受けるという事です。
自分の人生と他人の人生は密接につながっているということです。
だから、自分一人の幸せというものはあり得ないわけです。

例えば、自分自身は毎日充実していて、ハツラツとしていて、楽しくて幸せな人生を送っていたとしても、家族が健康を害していて、いつも辛そうで楽しくなさそうであればどうでしょうか。
きっと家族の健康を祈ることだと思います。
健康になって、家族も一緒に幸せになってほしいと思うことでしょう。
いくら自分の人生が充実していようとも、身近な家族が不幸なら、絶対に幸せだとは思えないわけです。

つまり、自分の幸せというものの中に、家族が幸せでいる事、というものも入っているわけです。

同じように、家族の幸せを願うことほど重要ではないにせよ、やっぱり周りの人が幸せである方が、自分も幸せでいられるはずです。

もちろん、自分の幸せや家族の幸せの方が重要なわけですから、その幸せを犠牲にしてまで他人の幸せを願うべきだとは思いません。
しかし、ある程度自分や家族が幸せなら、その幸せの範囲を広げられるように、何の見返りも無かったとしても、やっぱり他人のためなる事をするべきだと私は思います。
そうする事が、実は自分の幸せにもつながっていると私は思うからです。

その範囲が広くなれば広くなるほど、自分の事しか考えないという狭い視野では決して見えない幸せが見えてくるはずです。

何かをしてあげても何の見返りも無いこともあるでしょう。
しかし、時には無条件の奉仕も必要です。

マイクロソフトの創業者のビルゲイツや、世界一の投資家として知られるウォーレンバフェットなど、桁違いのお金持ちが行き着く先は、なぜかこぞって何らかの団体への寄付です。
見返りがあるはずもない、全く名前も知らない赤の他人への奉仕であるわけです。

なぜそのようなことをするかと言うと、やはりそうすることが自分の幸せだからです。

何の見返りがなくても、他人を幸せにしているという自己満足が自分を幸せにしてくれることもあります。

以前にこのブログで紹介しましたが、ソフトバンクの孫正義さんは、何のために身を削って働いているかという事に対して、自己満足のためにやっていると言っています。
そして孫正義さんの考える究極の自己満足とは、人に喜んでもらうことだと言います。
人が心から喜んでくれて、笑顔で「ありがとう」と言って感謝してくれたら、それが一番の自己満足なのだと心の底から思ったそうです。

私たちが最終的に求めているものは、お金でも地位でも名誉でもない。究極の自己満足である。

もし自分が生きている間に、1人でも2人でも、自分に対して心底感謝してくれる人が居るのであれば、何の見返りがなくても、例え直接お礼を言われたわけでなくとも、自分が生きていた価値はあるのではないでしょうか。

そしてそのような行いをすることは、自分にとって幸せなことになるのではないかと思うわけです。

小さい時に膝をすりむいて大泣きしていた時、知らないおじちゃんがママのところまで連れて行ってくれたな、誰か知らないけれど、あの時は嬉しかった。

そんな小さな事でも人の記憶にしっかり残ることもあります。

誰だか知らない赤の他人であっても、そのように誰かに感謝されたり記憶にとどめてもらう、それだけでも私たちが生きていた価値があり、生きていた証しがあるのではないでしょうか。
そしてそれはとても幸せなことだと私は思うんです。

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