「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
このことわざはほとんどの人がご存知でしょう。
この「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、ご存知の通り、稲が生長し、その実が実れば実るほど垂れ下がっていく情景を人と重ねた言葉です。
稲は緑で若いうちは真っ直ぐ天に向かってすくすくと成長していきます。
そして雨や風、寒い日、暑い日を乗り越えて成長し、やがて実をつけるものです。
人間も同じ。
若いうちはただ真っ直ぐに伸びていき、時には社会の荒波にもまれ、その中で成長し、
人としてのそれぞれの実を実らせるものです。
そのようにして、稲も人も成長していく中で、頭を垂れる稲、頭を垂れる人が生まれてくるわけです。
しかし、見た目は立派な稲に成長しても、中身の詰まっていない稲は重みが無く、頭を垂れることはありません。
そしてこれも私たち人間と同じ。
見た目は立派な人間でも、人格という中身が詰まっていない人間は重みが無く、頭を垂れることはありません。
この言葉はあの松下幸之助さんもよく発言する言葉です。
そしてあんなに立派な松下幸之助さんがどれほど頭を垂れる人かは以前にこのブログで上げたとおりです。
松下幸之助のみかんの逸話。経営の神様はやはり人格も半端じゃない。
電車の車内である夫婦にみかんをもらった松下幸之助さんは、電車から下車する際、わざわざその夫婦の座席行き、
「先ほどはありがとうございました。とても美味しかったです。」
と頭を下げて下車されたそうです。
さらに、駅のホームでその夫婦の座席が見える場所まで来て、深々と頭を下げ、夫婦の姿が見えなくなるまで見送ったそうです。
どれだけ自分が偉くなっても、やはりこうありたいものです。
いくら社会的に成功していたとしても、人格が出来ていなければこのように頭を垂れることは出来ません。
実りある人ほど謙虚な姿勢を見せるものです。
それがこの言葉、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。
この姿勢があるからこそ永続的な成功と、本当の意味での成功があるのだと私は考えます。
つまり、人格なき成功者は本当の成功者ではなく、一時的な成功に過ぎず、いずれ足元をすくわれると思っています。
このような姿勢があるからこそ人が尊敬するのであり、また人が寄ってくるのであり、永続的な成功があるのでしょう。
社会的な成功よりも、経済的な成功よりも、まずは自分の中の成功を目指したいものです。
その土台があってこその社会的成功です。
その原則を間違えてしまえば、目先の成功にとらわれ、スカスカの実をつけてしまいかねません。
7つの習慣の著者、スティーブン・R・コヴィーも同書のなかでこのように述べています。
「私的成功は公的成功に先立つ」
まずは私的成功、つまり人格という土台を作ることでしか、公的成功はあり得ないわけです。
頭を垂れるほどに、まずは自分自身の人格を実らせたいものです。
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