二宮金次郎とは何をした人?意外と知らない二宮金次郎のエピソードまとめ!

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人物紹介・成功ヒストリー

私が最も尊敬する歴史上の人物こそが二宮金次郎。

しかし、二宮金次郎と言えば、薪を背負いながら読書をする少年の像のイメージが強すぎるため、勉強熱心な少年とか、働き者の少年というようなイメージしかなく、実際に二宮金次郎が何をした人なのか知らないという人も多い。
しかしそれは非常にもったいないことだと思う。

ということで、今回は意外と知らない二宮金次郎のエピソードを出来るだけ簡単にかいつまんでご紹介し、二宮金次郎とはどのような人物だったのかを知ってもらいたい。

これを読むと二宮金次郎のことが少し好きになると同時に、考え方や今後の人生に役立つことになると思う。

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二宮家の一家離散

幼少期の金次郎

二宮金次郎は天明7年(1787年)相模国足柄上郡栢山村(現小田原市栢山)で生まれる。
父親は利右衛門、当時35歳、百姓。
母親はよし、当時21歳。
金次郎はそこの長男として生まれる。

金次郎が生まれた当時の二宮家は広い田畑を持つ裕福な家庭。
けれど、この財産を作ったのは父の利右衛門ではなく、祖父の銀右衛門。
父の利右衛門は祖父の銀右衛門とは違い、平凡な百姓であり、そして栢山の善人と呼ばれるほど人が良かった。
困っている人にお米やお金を無利子で貸したりしていた。
それでいて、無理に取り立てることもしない。
そんな善人ぶりのせいで、貸したものが回収できず、祖父、銀右衛門の築いた財産は無くなり始め、裕福だった家庭は数年にして、いとも簡単に傾き、極貧に陥ってしまった。

酒匂川の氾濫と父、利右衛門の死

そして金次郎が5歳になった頃、決定的な災難が起こる。

暴風雨に見舞われ、近くの酒匂川(さかわがわ)が氾濫し、あたり一帯が濁流にのみ込まれ田畑のほとんどが土砂に埋もれてしまった。
それでも、真面目な利右衛門は諦めず、田畑を取り戻すために借金を重ね、今まで以上に一生懸命働いた。
しかし一方、自分が貸したお米やお金は返ってくることはなく、ますます困窮していった。

そしてそのような暮らしが5年ほど続いたとき、働きづめにより、重なる苦労や無理がたたって、父利右衛門は病気になってしまう。
それまで利右衛門の肩に乗っていたものが金次郎の上に降りかかってきた。
金次郎は父の負担を何とか減らそうと、一生懸命働いた。

しかしその甲斐なく、金次郎が14歳になった頃、父利右衛門は病から回復することなく、この世を去った。

母、よしの死と再び起きた酒匂川の氾濫による一家離散

実はこのとき金次郎には、次男友吉、三男富次郎の2人の弟がいて、三男の富次郎はまだ1歳になるかならないかの歳。
そのため、母親は働きに出ることも出来ず、母子4人の生活の負担が一気に金次郎の肩に降りかかってきことになる。
しかし、それでは家族全員が飢え死にすると判断した母のよしは、三男の富次郎を、自分の実の弟に育ててもらうことを決意する。
そうして、富次郎を預けたものの、母のよしは悲しみから毎晩泣き続けた。

そのことに気づいた金次郎は、私が今まで以上に働くから、どうか富次郎を連れ戻してきてくださいと母のよしに言い、富次郎を連れ戻させた。
そしてその言葉通り、金次郎は今まで以上に働いた。

朝は未明に起きて山へ薪を取りに行き、街に売りに行った。
昼は田畑を耕し、そして夜は遅くまで草鞋を作った。

ちなみに金次郎の家から薪が取れる山までは約4キロの道のりがあり、山から街までは8キロの道のりがある。
その道のりをただ薪を背負って歩くだけではもったいないと思った金次郎は、大好きな読書をしながら歩くことにした。
この姿こそが、誰もが一度は見たことのある、あの有名な像の姿となっている。

そのようにして、子どもながらに一生懸命働き、一家を支えた。

しかしその甲斐もなく、金次郎16歳の時、母のよしまでもが病に見舞われ、そのまま帰らぬ人となってしまった。

一生懸命働いたにも関わらず、この2年ほどの間に、父と母の両方を亡くしてしまったわけである。

残されたのは16歳の金次郎と13歳の友吉、そして4歳の富次郎である。

それでも諦めず、今まで以上に働いた金次郎だったが、酒匂川がまたもや氾濫し、残りの田畑までも流されてしまった。
こうなると、子ども3人では生きていくことは出来ない。
金次郎は父方の伯父のところへ、友吉と富次郎は母方の実家へ引き取られることになった。
このようにして、二宮家は一家離散することになった。

生家を復興する

生家復興を決意する金次郎

伯父のところへ引き取られた金次郎だったが、兄弟3人で暮らすことを諦めたわけではない。
一生懸命働いて、いつか必ず生家を復興させてみるという熱い気持ちを持っていた。
もともと働くことが好きな金次郎は、伯父のところへ引き取られた後も、今までと変わらず、薪を取り、田畑を耕し、草鞋を作るという風に一生懸命働いた。

このような姿から、まだ年齢的には子どもだったけれど、二宮金次郎の強さがよくわかる。

そしてその姿を見た伯父も、必ず立派な百姓に育て上げようと厳しく指導した。

しかしここから金次郎と伯父の間にひずみが生まれる。

学問に励む金次郎とそれを許さない伯父

生家復興への熱い思いを持つ金次郎は、ただ一生懸命働くだけではダメだと思っていた。
立派な百姓になるためには知恵がいると考えた金次郎は、今まで通り一生懸命働きながらも、学問を学ぼうとする。
皆が寝静まったあと、読書に励む金次郎だったけれど、その姿を伯父に見つかってしまった。

今の時代で考えれば、働いた上に勉強をするという行為はとても素晴らしいと認められそうだけれど、当時は百姓に学問などいらない、そんな暇があれば少しでも早く寝て、明日の仕事に精を出せという考え方だった。
むしろ学問は立派な百姓となるための邪魔になると考えられていた。

さらに金次郎は暗闇で読書をするために、行燈(あんどん)をつけていた。
そのことに対して伯父は、
「行燈をつけるための油もただではない、お前が読書をすればするほど油が減っていく、学問などというつまらないもののために、油を使うな!」
と叱りつけた。

そのことに対して素直に謝った金次郎だったが、自分の意思は固く、学問をすることを諦めようとしなかった。
油がもったいないのであれば、自分で油を作ろう、そうすれば伯父に文句を言われることもないだろう、そう考えた金次郎は、なんと菜種を栽培するという壮大な計画に打って出た。
そして翌年には、育てた菜種からたっぷり油を取ったのである。

その油で読書を再開した金次郎だったが、伯父からするとそういう問題ではない。
そもそも百姓に学問は必要ないという考えである。
再び叱りつけられた金次郎は、ついに読書を禁止された。

しかし、金次郎の考え方は変わらず、立派な百姓になるためには絶対に学問が必要だと考えていた。

そこで唯一、金次郎の考え方に理解を示してくれた伯父の妹の子ども、つまり金次郎にとっては従兄弟にあたる人物が協力してくれた。
伯父が寝たタイミングを教えてくれたり、金次郎が隠れて勉強するための手助けをしてくれた。
このようにして、金次郎は仕事を学問を両立させた。

奉公(ほうこう)に出る金次郎

そして結局、2年足らずで伯父の家を出て、栢山村の名主、岡部伊助のところへ奉公(どこかの主人の家に仕えて住み込みで給料をもらって働くこと。言わば住み込みの仕事。)に行った。

その理由はもちろん、百姓に学問は不要だという伯父と、百姓にも学問が必要だという金次郎の考え方の不一致。
そしてもう一つ、生家を復興させたい金次郎にはお金が必要だったことがあげられる。

伯父の家に居たのでは、給料がもらえるわけはなく、その労働はすべて伯父のものになってしまうからだ。
言わばただ働き。
自分のふところにお金が入ってこないのであれば、生家を復興させることは出来ない。
そのようにして、伯父の家を出た金次郎は、岡部家への奉公の後、さらに給金のいい二宮七左衛門のところへ奉公に出た。

そのようにしてお金を貯めた金次郎は、20歳になった頃に生家へ戻り、ついに失った田畑の一部を買戻し、生家で百姓仕事に精を出すことになる。

しかし、ここでまた金次郎に悲劇が襲う。

三男、富次郎の死

親戚に預けて元気で育っているものだとばかり思っていた一番下の弟が亡くなった。
まだ9歳であった。

早く生家を復興して、たとえ貧しくとも2人の弟と3人で一緒に暮らすことが夢だった金次郎。
きっと2人の弟もそれを待ち望んでいたはずなのに、その願いを果たせずに、一番下の弟は亡くなってしまった。

これには金次郎も打ちひしがれ、生家を復興させ、弟を迎えに行くことが出来なかった自分の不甲斐なさに涙を流した。

しかし、それでも立ち上がるのが二宮金次郎であり、金次郎の生家復興の夢は決して途絶えることはなく、むしろその思いをさらに強固なものにしていくのである。

その後も金次郎は日雇いの奉公に出ながら、買い戻した田畑を耕し、働き続けた。
さらに、自分で作った米や野菜を売ったり、薪を取って売ったり、米やお金を貸してその利息を得たりしながらお金を得た。
そしてそのお金で新たな田畑を買い入れ、どんどん田畑を増やしていった。
それだけではなく、まだ何もない荒れ地を開墾し、自力で新しい田畑も増やしていった。

そのようにして、どんどん増やした田畑を小作に出し(土地を所有しない者に田畑の使用権を渡し、代わりに農作物の生産に当たってもらい、小作料をもらうこと。)、自分は荒れ地を開墾したり、他の仕事で得た収入でさらに田畑を増やしていった。

それを永遠と繰り返した結果、ついに金次郎は24歳にして、父の利右衛門が生きていた頃の土地以上の田畑を手に入れ、念願の生家復興を成し遂げた。

服部家の財政再建

金次郎の手腕を知った服部十郎兵衛

見事生家を復興させた金次郎は、村でも一、二を争う大地主になった。
その姿に、村人たちは驚きをかくせず、金次郎は一気に注目の人となった。

そして金次郎に注目したのは村人だけではなかった。

なんと小田原藩の家老、服部十郎兵衛が、金次郎の手腕に注目した。
そして驚くことに、服部十郎兵衛は金次郎に、服部家の財政再建を依頼した。

武士の中でも最高の身分にある服部十郎兵衛が、一農民の二宮金次郎に財政再建を依頼するなど、当時ではありえないことである。

実は金次郎は、以前に服部十郎兵衛の邸に奉公に出たことがあった。

服部十郎兵衛は、その時の金次郎の働きぶりや周りから得ていた信頼、そして何より、生家復興を見事に成し遂げた金次郎の手腕に、服部家の財政再建の可能性を見出した。

しかし金次郎は、
「一介の農民の私が、どうして武家を再建することなどできましょうか」
と言い、再三に渡って断った。

しかし服部十郎兵衛も諦めない。
再三、再四に渡って金次郎に依頼し続けた。

そしてとうとう金次郎は、一介の農民が武士の家を再建するという大きな仕事を引き受けることになる。

服部家の財政再建を引き受けた金次郎

金次郎は財政再建の条件として、5年の時間が欲しいこと、そしてその間、一切の口出しは無用という約束を取り付けた。

さて、服部家の財政状況を見てみると、これがひどいものだった。

服部家には毎年1,200俵のお渡し米(言わば収入)があるはずだが、色々なものを差し引かれ、実際には400俵ほどしかなかった。
それにも関わらず、1,200俵が入ってくるものとして生活していたので、不足している800俵は毎年借金として重ねられているという状況。

その貯まりに貯まった借金が、246両だと言われている。

246両と言っても分かりにくいので、今の金額に直したいところだけれど、1両がいくらかというのは今でも分からないらしく、正確な金額は分からない。
不明確だけれど、一説によると3千万~7千万円だと考えられている。

いずれにしても分かっていることは、今で言えば400万円の収入しかないのに、1,200万円を使っている状態だということ。
だから、借金も3千万~7千万円あり、それも増加傾向にあったと言われている。

そこで金次郎は、まずお渡し米400俵の中で生活することを決定した。
つまり、今までの生活水準の3分の1で生活することを決定したということになる。
しかし、400俵をそのまま使う生活では借金は膨れるばかり。
そこで金次郎は、今までの生活から削れるものを削るという節約計画を立てて、財政再建に打って出たのである。

節約計画に打って出た金次郎は、まず食事は米と汁のみ、衣服は簡素な木綿のみと決定する。
さらに、ご飯を炊く時は薪3本、火の通りを良くするために窯のすすは良く取ること、行燈の火はすぐ消すことなど、私生活の細かい事まで、徹底的に手入れをした。

そうなると、窮屈でたまらないのは服部家の者たちである。

窮屈な生活に、まず音を上げたのは、なんと依頼人の服部十郎兵衛である。

「さすがに窮屈すぎる、たまの贅沢ぐらい許せ」

その言葉に金次郎はこう返す。

「口出し無用のはず」

このように一喝し、服部十郎兵衛は渋々我慢する。

しかし、問題は服部十郎兵衛よりもそこに仕える使用人たち。
ほとんどの使用人が、金次郎のやることに不満を持っているのである。

そもそも、使用人は服部十郎兵衛に仕える者である。
服部十郎兵衛の言うことは聞くが、一介の農民である金次郎の言うことを聞く道理がない。

このようにして、金次郎の言いつけは守られず、借金が減るどころか、むしろ増えることになってしまった。

報奨金制度を取り入れる

この状況をどうにかしようと考えた金次郎は、使用人が節約した分の一部を報奨金として手渡すことにしたのである。

この効果は覿面(てきめん)。
節約が自分の利益になることが分かると、使用人たちも徹底した節約に励んだのである。

しかし、服部家の借金は5年を過ぎても完済されなかった。
服部家の当主も服部十郎兵衛から変わったこともあり、金次郎との誓約も忠実に守られなかったためである。

ここで分かるのは、どれだけノウハウを教えても、結局はその代償を払うか払わないかは本人次第であるということだと思う。
本人にその覚悟がなければ、どれだけ優れた人にノウハウを教えてもらったとしても、決してそれを達成することは出来ない。
これに関しては、今も昔も変わらない真理だと思う。

結果的には、服部家が借金を完済出来たのは30年も後のことだったと言われている。

とは言え、金次郎が財政再建に関わっていなければ、服部家はもっと前に破綻していただろうし、たとえ30年後であっても財政を立て直すことは出来なかったのではないかと思う。

桜町領の復興事業

金次郎の手腕を見抜いた小田原藩の藩主、大久保忠真

服部家の借金を5年では完済することが出来なかった金次郎だが、そのまま放っておけば服部家は間違いなく破綻していた。
結果的には借金を完済するまでに30年かかったとは言え、破綻寸前だった服部家を立て直したことには変わりない。
服部家の財政立て直し、財政整理には成功したと言える。

そしてそのことが、小田原藩の藩主、大久保忠真の耳に入った。

実はこの時、小田原藩の財政も決して良くはなかった。
大久保忠真は、金次郎に小田原藩の財政再建もやらせてみてはどうだろうか、と考えた。
そのことを家臣に相談したが、
「一介の農民を家臣の上に立たせるなんて、いくら殿の命令とは言え納得できない」
という返事が返ってきた。

しかし大久保忠真はなんとしても金次郎に財政再建をやらせてみたい。
そこで大久保忠真は小田原藩の分家である桜町領の再建を金次郎に命じた。

実はこの桜町領、度重なる飢饉から立ち直れず、荒れ果てていた。
これまで何人もの役人を復興事業のために送り込んでいたが、ことごとく失敗していた。

大久保忠真は、まずはこの桜町領を金次郎に復興させてみたいと考えていた。
そしてこの時、大久保忠真の頭の中にはそれ以外の思惑もあった。
少し回り道にはなるけれど、桜町領の財政再建を金次郎が見事に成功させれば、家臣たちも金次郎の手腕を認め、小田原藩の財政再建にも納得してくれるだろうという思惑もあった。

しかし金次郎はその命令に対して、服部家の財政再建を依頼された時と同じように、
「一介の農民の私が、どうしてそのような大事業をお引き受けすることができましょうか」
と言い、再三に渡って断った。
しかし大久保忠真も諦めず、再三、再四に渡って、家臣に命令を伝えさせた。
ついに折れた金次郎は、そうであればまず現地に行って調査をしたいと申し出た。

桜町領復興のための事前調査に出た金次郎

そして桜町領へ調査に出た金次郎は、驚きの光景を見ることになる。
田畑を放り出し、昼間から酒を飲む農民、博打にふける農民の姿を見たのである。

「なぜこの町の人々の心はここまで荒れ果てているのか?」

金次郎は調査をしていく中で、ある根本的な問題に気づく。
村々を練り歩き、桜町の経済状況を100年前までさかのぼって調べ上げた結果、今の桜町の田畑の生産量から考えると、あまりにも年貢が高すぎた。
高すぎる年貢が、村人たちの気力を失わせていたのである。

そこで金次郎は、大久保忠真に、年貢の減額を要請する。
と言っても、これは決して簡単なことではない。

その当時、村の人たちが団結して、百姓一揆という形で年貢の引き下げを要求し、成功すればようやく年貢が引き下げられたという状況である。
つまり、年貢の引き下げ要求は、その当時では命がけのことである。
一歩間違えば反逆とみなされ、命を落とすことになる。
それを金次郎は、たった一人で要求し、そしてそれに成功したのである。

実は金次郎が再三、再四に渡って依頼を断るのは、ただ純粋に無理だと言っているわけではなく、自分に有利な形で事を運びたいという駆け引きがあったのではないかと言われている。
自分が命令を断ることで、どれだけ本気なのかを見極めることが出来る。
さらにそのことによって、桜町領を復興せよという命令は、「命令」から「依頼」へと変わり、さらに断り続けることで、「依頼」は「お願い」に変わる。

つまり、この場合で言えばお願いしているのは大久保忠真の方であり、了承するのは金次郎、という立ち位置の関係性が生まれる。
そうすることで、金次郎は一介の農民でありながら、藩主である大久保忠真に対して強く出ることが出来る。

そして実際に、百姓一揆でもなかなか成し遂げられない年貢の引き下げを、たった一人でいとも簡単に成し遂げたのである。

そして金次郎が提出した約束と条件が以下のようになる。

・復興期間は10年
・復興期間中の年貢は米1,005俵(現在は4,000俵)、金が145両(現在は500両)とする。
・復興完了予定の10年後の年貢は2,000俵とする。
・復興方法については全て金次郎に委任し、口出し無用。

このような条件をつけた。

そしてこの事業に際して、金次郎には武士の位が与えられた。
一介の農民が、その手腕を買われ、ついには武士にまで昇り詰めたのである。

桜町領復興のための報奨金制度

そしていよいよ桜町領の復興という大事業が開始された。

金次郎はまず、村人の荒れ果てた心を回復させるため、士気を高める表彰制度を導入した。
勤勉に働いた者、村に貢献したものを定期的に表彰し、褒美として鍬や鎌などの農具であったり、住居や納屋であったり、時には金を与えた。

その効果は覿面で、人々の士気は徐々に上がっていった。

金次郎に反感を持つ村人

しかし、勤勉で表彰されるものにとっては良い制度だけれど、表彰されない人間にとってはこの制度は面白くない。
復興は順調に進んでいたが、徐々に金次郎に反感を覚えるものも出始めた。
それどころか、表彰を受けた者に対するいじめまで出始める始末。
このいじめに耐えきれない人たちの中には村を出る者も現れた。
つまり、優秀な人が村から追い出される状況になってしまった。

さらに金次郎に反感を持つ者は農民だけではない。
元々桜町で武士として村を率いていた者たちも、突然やってきた農民上がりの金次郎に反感を持ち始めた。

そして反感が爆発する。

ある夜、金次郎は何者かによって襲われる。
なんとかその場は逃れ、命からがら逃げ出したものの、なぜこのような目にあわなければいけないのだろう、私はここの村人から嫌われている、そのような思いが金次郎の心に迷いを生じさせる。
また、その頃は村人からも、他の武士からもたくさんの嫌がらせを受ける始末。

「なぜ分かってくれないのか、私の独りよがりだったのか」

そのような思いから、金次郎は桜町領から忽然と姿を消した。

桜町領から姿を消した金次郎

金次郎はまず生まれ故郷の栢山村へ帰り、弟に会って心を落ち着けた。
そしてその後、成田山へ向かい、そこの不動尊で修行をすることにした。
そこで自分の心と向き合い、お不動さんのように絶対に揺るがない信念を見つけようとしていた。

一方そのころ、桜町領では、金次郎が失踪したことに、村人たちは危機感を抱いていた。
一部の人間から反感があったことは事実だけれど、それでも、以前に比べて確実に村が復興していっていることは事実。
金次郎が居なくなったことに、誰もが焦りを感じていた。

そして金次郎が居なくなって2週間ほどが過ぎたころ、小田原藩邸に書状が届けられた。

”二宮様にお世話いただいたのはありがたき幸せだった。
行いをいかようにも改めますので、心の底から二宮様に戻ってほしい”

この書状を、大久保忠真の居る小田原藩邸に提出し、金次郎の行方を探してほしいと訴えた。
それを受けた大久保忠真は、金次郎の行方を探すよう命じた。

そして金次郎は成田山にて断食修行を受けているということが分かった。
そんなことは知らずに21日間の断食修行を終え、寺を出た金次郎の目の前には、大勢で金次郎を出迎える桜町の村人たちの姿があった。
その姿を見た金次郎はその日のうちに桜町領へ戻り、揺るぎない決意で復興事業にあたることにした。

報徳金制度の導入

そして金次郎は桜町領復興にあたって、新たな策を見出した。

それは報徳金制度。

報徳金制度とは、村人皆でお金を出し合い、お金が必要な人に無利子で貸し出す制度。
もし借主が返済できない場合は、借主の仲間である皆が返済をしなければならないという連帯責任制度。

今の世の中で言えば、借金をするのも他人だし、この制度はありえないように思うけれど、借金をする相手が顔見知りの村人であれば、また話は違ってくる。
そして何より、貧困のせいで自分の田畑を失った人たちが、この制度、そしてこのお金のおかげで自分の田畑を取り戻すことが出来、また仕事をすることが出来る。
これほどありがたいことはない。
その気持ちに報いる、これが報徳金制度である。

この制度が村の人々たちの団結力を高め、復興事業は今まで以上の成果を上げることとなる。

桜町領の復興事業、完了

そして約束の10年歳月が流れた頃、復興事業は当初の計画通り見事に成功した。

金次郎の計算では、年貢米の収納可能数は1894俵となり、約束の2000俵にほぼ近づいた。
少し村人に無理をしてもらえば、今すぐにでも約束通り、2,000俵の年貢を納めることが出来る。

しかし金次郎はそうしなかった。

せっかく順調に復興してきたのに、ここで村人に無理を強いて余裕がなくなってしまうと、元の二の舞になりかねないと考えたからだ。

せっかくの復興事業の成果を不変のものとするためには、あともう少し余裕が必要。
そう考えた金次郎は、無理に年貢米を2,000俵にせず、あと5年、復興事業を延長させてほしいと大久保忠真へ延長願を出したのだ。

これまでの成果を見て、大久保忠真が断るはずもなく、喜んでそれを承認した。

そして5年が経過したころ、金次郎は復興事業終了を告げるとともに、約束通り年貢米を2,000俵に設定した。
さらに、復興期間であるこの15年の間に余剰分として蓄積していた米8543俵と、金211両をも引き渡した。
これには大久保忠真も大喜びで金次郎の功績を讃えた。

さらに、年貢米を2,000俵と設定したが、このころの桜町では3,000俵以上の収穫があるまでに復興していた。
ここまで来れば村人にも余裕が出来、復興事業の成果は不変のものとなる。
このタイミングで金次郎は復興事業終了を告げたのである。

飢饉を救う金次郎

桜町領を見事に復興させた金次郎だが、実はこの間に、復興事業とは別の功績も残していた。

天保4年、この年は天候不順で雨が降り続けていた。
そして初夏のある日、金次郎は昼食に出された茄子を食べた。
すると、まだ初夏だというのに、秋茄子の味がしたという。
それに驚いた金次郎は外に飛び出し、稲や草を調べてみた。
すると、根は普通であったが、どの稲も草も葉の先が衰えていた。
土の中はまだ夏であるが、地上はすでに秋になっているということが分かった。

これを見た金次郎は、今年は農作物が実らない、飢饉が来ると察知した。

すぐに桜町の村人に、今年は作物が実らないから、飢饉に強い芋、大根、カブなどの野菜の種をまくように指示した。
それと同時に、冷害に強い稗をまくようにも指示した。
そして稗が実ったら、これを必ず蓄えておくようにとつけ足した。

これを聞いた村人たちは、いくら二宮様が優れた知恵者かは知らないが、こんな初夏のうちから飢饉が起こるなんて分かるはずがない。
まったく無益なことをするものだ、と笑っていた。

しかし、金次郎の予想通り、飢饉は起こる。
いや、金次郎の予想を超えるほどの飢饉が起きたのである。

全国的に凶作となり、大勢の餓死者が出る自体となった。

しかし、桜町領ではこの時すでに、金次郎の復興事業のおかげで3376俵の備蓄米があったので、それを食べ、足らない分は事前に種まきをしていた野菜や稗を食べて補った。

その結果、桜町では一人の餓死者も出さずに済んだ。
それどころか、隣町に稗を与えて援助したぐらいだった。

これが世に言う天保の大飢饉であり、金次郎はその大飢饉から、桜町領の人々を、一人の餓死者も出すことなく救ったのである。

その噂が広がり、各村々から金次郎が欲しいと要望が出る。

歴史に名を刻む二宮金次郎

そして金次郎はその後も、飢饉によって荒れ果てた村を復興しては、たくさんの村人たちを救った。

そのような功績が賞され、金次郎はついに幕臣に登用される。
一介の農民が、己の手腕ひとつで将軍直属の家臣である幕臣に登用されたのだ。

そして安政3年(1856)、金次郎は70歳でその生涯を終えるまでに、およそ600以上の村々を復興させたと言われている。

金次郎のこの手腕、思想、勤勉さ、精神などが後世に伝えられ、ついに二宮金次郎は、元は一介の農民でありながら、歴史に名を刻む人物となり、今私たちの誰もが知る偉大な人物となったのである。

二宮金次郎のまとめと二宮金次郎から学ぶこと

二宮金次郎(にのみやきんじろう)

自筆文書では金治郎と書かれていることが多いが、一般的には金次郎と書かれていることが多い。

天保13年4月、金次郎は尊徳と名乗るようになり、二宮金次郎から二宮尊徳に変更された。
正式な呼び名は「にのみやたかのり」であったが、後世では「にのみやそんとく」と呼ばれるのが一般的になった。

二宮金次郎の思想の中で、最も素晴らしいものであり、重要な思想は
「積小為大(せいしょういだい)」
の思想だと思う。

積小為大とは、小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつく。
大きな事を成し遂げようと思うなら、小さい事をおろそかにしてはいけない。
つまり、小事をおろそかにしていては、決して大事をなすことはできない、という意味である。

そしてこのことを、金次郎はこのように語っている。

およそ小人の常、大なることを欲して小なることを怠り、出来難き事を憂いて、出来易き事を勤めず。それ故ついに、大なることなす事能わず。

これを訳すと、大きなことを成し遂げようとするならば、小さな事を怠らずにやるべきである。
小さな事が積み重なって大きなことを成し遂げられる。
しかし、大きなことを成し遂げられない人は、大きなことを求めるばかりで、出来ないことばかりに目を向け出来ない出来ないと言い、目の前の出来る小さなことを見ようともせず、それに懸命になる事をしない。
小さな事もしない結果として、当然大きな事も成し遂げることは出来ない。
大きな事は、小さな事を積み重ねた結果であるということを知らないからだ。
という意味になる。
この思想こそが、金次郎が生家の復興、たくさんの村々の復興に至る根源の思想だと思う。

この思想は現代の私たちも学ぶべきそうであると思う。

現代においても、やはり大きなことを成し遂げる人間は小さなことを怠らずにやる人間であり、そうでない人はやはり大きなことを成し遂げることは出来ない。

それでも私たちは、小さな積み重ねを怠り、すぐに大きなことを成し遂げようとして、成功には何か近道があるとか、裏技があるとか、魔法があるかのように考え、大きな事ばかりに目を向け、小さなことを見ようともせず、それに懸命になる事をしない。

何かを成し遂げたいのであれば、まず自分はゼロだと考えるべきだと思う。
ゼロの自分に、まず1を足すことが大事だと思う。

けれど、小さなことに目を向けずに大きなことを成し遂げようとする人は、ゼロの自分に何かを掛けようとする。

しかし、ゼロに何を掛けてもゼロである。

大きなことを成し遂げようとして掛け算をする前に、少なくとも自分を1以上にしなければならない。
そのようにして、自分に何かを掛けるのではなく、足していくことで、やがて掛け算が出来るようになり、成果が表れてくるのだと思う。

実際、先に紹介したように、金次郎の人生はそのような人生であり、そのような思想の持ち主であった。

度重なる災難にもめげず、小さなことを積み重ね、まずは自分の目的であった生家を復興させた。

その後も目の前の小さなことを積み重ねた結果、やがて人にも影響を与えられる人物になり、復興事業に携わることになり、そしてそこでもまた、金次郎自身の思想である積小為大の大切さを伝え、それを実行した。

その結果、一介の農民が幕臣にまで昇りつめ、600以上の村々を復興させる偉業を成し遂げた。

しかし金次郎がやっていることは、生家を復興させるためにやっていたことと何も変わっておらず、目の前の出来る小さなことをやり続け、それを積み重ねた結果である。
その規模が、掛け算式に大きくなっただけであると言える。

けれど、その規模が大きくなったのは、金次郎自身が一つずつ足し算を積み重ねてきたから、掛け算の合計が大きくなったのだと思う。

金次郎が主導した財政再建策の総称のことを報徳仕法(ほうとくしほう)と言うが、この報徳仕法の根本的な思想が積小為大になると思う。

もしこの思想が再び現代に広まることになれば、今よりももっと素晴らしい世の中に変わるかもしれない。
実際、現代社会にこそ二宮金次郎が必要だという声も多い。

それほど二宮金次郎とは偉大な人物であると言える。

参考著書

この記事を書くにあたって参考にさせてもらった書籍がある。

『二宮金次郎の一生』
著者:三戸岡道夫
出版/栄光出版社

この著書では二宮金次郎のことが事細かく、詳しく書かれている。
この記事はかなりかいつまんで書いているので、二宮金次郎についてもっと詳しく知りたい方はぜひこの書籍を手に取ってみてほしい。
ここには書ききれなかったたくさんのことがこの書籍には詰まっている。
二宮金次郎は私が最も尊敬する歴史上の人物であるがゆえに、二宮金次郎のことをもっとたくさんの人に知ってもらえれば、私も幸いです。

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