少し前から老害という言葉が浸透してきて、今やすっかり定着している。
この老害とは、簡単に言うならば、迷惑な老人、困った老人と考えて差し支えないと思う。
偉そうにしたり、怒りっぽかったり、自分の価値観を押し付けてきたりと、何かと迷惑をかける老人を指す言葉。
もちろん、全ての老人がそのような迷惑をかけるかというと決してそうではない。
中には歳を取っても素晴らしい人格の人もいるし、年相応に知識や経験が豊富で、とてもかなわないと思えるような老人もいる。
でも、最近は老害と呼ばれる老人が増えてきているように思う。
この老害と呼ばれる老人が生まれる理由は、今まで学んできたことや培ってきた経験から、自分は全てを知っていると勘違いし、プライドを持ち、謙虚さを忘れる人が多くなったからだと思う。
そしてこれは、学歴社会や年功序列制度が生み出したものだと思う。
私たちが生まれるもっともっと以前は、学歴社会ではなく、家柄、土地柄などによって、ある程度の身分が決まっており、それは歳を取ってもほとんど変わることはなかった。
それが良いか悪いかは別として、そのような社会だったから、少なくとも一昔前の老人は謙虚さと危機感は常に持っていたのだと思う。
けれど、学歴社会と年功序列をまっしぐらに走ってきた今の老人は、敷かれたレールの上を走ることが正しく、歳を取れば取るほど偉くなると勘違いしているのだと思う。
その勘違いが謙虚さを失い、ふてぶてしい態度にさせているのではないかと、勝手ながらに想像する。
つまり、自分は世の中の酸いも甘いも全てを知っている人間だと勘違いし、学ぶことを忘れ、謙虚さを失い、自分こそが正しい、自分こそが偉いのだと思い込んでいるのだと思う。
この考え方こそが、老害を生む原因なのだと思う。
そしてこれは、何も老人に限ったことではないと思う。
傾向として、年齢を重ねた方が自分は世の中の酸いも甘いも全てを知っている人間だと勘違いしやすいから老人に現れやすいだけだと思う。
けれど、老人でなくてもこのような人間はたくさんいると思う。
老人に限らずこのような人たちは、自分が正しいと勘違いし、学ぶことを忘れ、謙虚さを失っているのだと思う。
老化とは、そのように始まるのだと思う。
前述のように、歳を取っても素晴らしい人はたくさんいる。
逆に若くても、謙虚さを失い、マウンティングしてくる人はたくさんいる。
これらのほとんどは、学ぶことを忘れ、謙虚さを失っていることに原因があるのだと思う。
自分自身のことをまだまだ未熟だと思って学ぶ姿勢があるか、
自分が学ぶべきことはもう十分学んでおり、これ以上学ぶ必要はないと思っているか。
学ぶ姿勢、つまり向上心を持っているうちは、人間まだまだ成長できる。
この姿勢を失った瞬間に、老化は始まるのだと思う。
年齢なんてただの数字にしか過ぎない。
決してその人の人格を表すものではない。
以前に、
現状維持は衰退。歳を重ねるごとに貴重な若さという財産を失っていることに気づく必要がある。
という記事を書いた。
つまり、学ぶ姿勢を失ってしまえば、若さという貴重な財産だけを失っていくことになる。
そうであれば、失った若さと同等か、それ以上に学び、成長する必要がある。
失った若さ以上に成長するから、人は進化することが出来るのだと思う。
学ぶことをやめ、成長を止めてしまえば、ただ若さだけが失われていく。
これこそが老化なのだと思う。
年齢を重ねるから老化するのではなく、成長することをやめるから老化するのだと思う。
歳を重ねても、学ぶ姿勢を持っていて、謙虚な気持ちを持っている人は決して老害にはならないと思う。
逆に言えば、例え若かろうが、学ぶ姿勢を失い、謙虚な気持ちをも失ってしまえば、人に害を及ぼす人間になってしまうのだと思う。
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