この世の現象それ自体には良いも悪いもない。あるのは、その現象を見て私たちがどのように感じるかということだけ。

哲学

あの人は運がいいとか、私は運が悪いとか、誰もがそのように感じたことがあると思う。
そして実際、運というものはあるし、その運で人生を大きく左右することもあると思う。
けれど私は、偶然とも思われがちなその運でさえも、ある程度自分自身で左右することが出来ると思っている。

以前にこのブログで、
時には、素直な心で世の中をあるがままに見ることが大切。
という記事を書いた。
そこにも書いたけれど、この世の現象それ自体には正解も不正解もないのだと思う。
良いも悪いもない。
あるのは、その現象を見て私たちがどのように感じるかということだけ。

例えば、上司に指導された場合でも、その指導を有難いと感じて素直に聞くことが出来る人と、ただ単純にうるさいと思いながら反発する人がいる。
事故に遭遇しても、軽い事故で済んで良かったと思う人と、事故を起こすなんて最悪と思う人がいる。
子供がダダをこねて言うことを聞かない場合でも、何かよほど嫌な理由があるのかなと子供の気持ちに配慮する人と、この子は本当に言うことを聞かないダメな子だと感じる人もいる。

今あげた例はある減少の一つに過ぎない。
けれど、同じ現象を目の当たりにしたとしても、見る人によって捉え方は全く変わってくる。
つまり、現象それ自体に正解、不正解があるわけでも、良い悪いがあるわけでもない。
正解、不正解、良い、悪いを決めるのはあくまで見る側の人間の思考、気持ち、心持ち次第であるということ。

もちろん、天災などの誰が見ても良いことではないというような、相当な不運を良かったと捉えようというのは無理があるけれど、それでも、命があってよかったと捉えるか、何もかも失ってしまったと捉えるか、あるいは不運の後に「よし!」という気持ちを持てるのか、「最悪、無理だ」という気持ちでいるのか、見え方、考え方によってそのような違いは必ず出る。

そうであれば、起きてしまった現象を変えることは出来ないけれど、未来に起きる現象を決めていくのはたまたまの偶然でも何でもなく、やはり私たちの考え方と行動次第なのだと思う。

上司の指導を素直に聞くことが出来る人とそうでない人では未来に起きる現象は変わってくると思う。
もちろんどちらが正しいかは分からないけれど、絶対に違う現象が起こると思う。
子供がダダをこねている子供に対して、子供の気持ちに配慮する人と、この子はダメな子だと考える親の子は、絶対に育ち方や性格、親への信頼などが違ってくる。
そうであれば、子供の気持ちに配慮する親の子は真っすぐに育ちやすく、ダメな子だと考える親の子は何らかの問題を多く抱える場合が多いと個人的には思う。
親の愛情不足や自分の主張への配慮不足で反発したり、苛立ったりしやすいからだ思う。
そう仮定するならば、この子はダメな子だと考える親は、この先も何度も子供に関する問題を多く抱えることになりやすいと思う。
そういう親に限って、「〇〇さんのところのお子さんはお利口さんでいいですね、うちなんかまったく言うことを聞かない子で困ってるんです。」
などと言う。
多少、本人の性格というものもあると思うけれど、根本的な原因を解決しようとせず、その場しのぎでバンソウコウを貼ってきたことに問題があると思う。

ちょっと子育ての話が長くなったけれど、要するに起こる出来事はたまたまの偶然でどうしようもないように思われがちだけれど、起きた現象をどのような目で見て、どのように感じ、どのような言動をとるかによって、未来の現象は変わってくるのだと思う。

そう考えれば、私たちの言動は未来の運さえも司るものであると言える。
そしてその言動は、どのように物事を捉え、どのように感じるかという部分に左右される。
だから物事をどれだけ素直な心で見ることが出来るかということが非常に重要になってくると思う。

現象それ自体に正解、不正解があるわけでも、良い悪いがあるわけでもない。
正解、不正解、良い、悪いを決めるのはあくまで見る側の人間の思考、気持ち、心持ち次第である。
そうであれば、素直な心で、より良い未来を呼び込めるような物事の捉え方を意識的にしていけばいいと思う。
やがてその捉え方が習慣となり、自分自身のものとして体得され、無意識に良いものを呼び込むことの出来る人間になれるのだと思う。

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